演劇は客席とのキャッチボール。
劇作家コースの授業をやっていると、実際に自分の台本を上演したことがある人と上演したことがない人の間に、非常に大きなギャップを感じます。それは何かというと、“お客さんの印象をコントロールできているかどうか”ということです。
演劇の舞台というものは、客席にお客さんがいて、初めて成立するものです。我々はただガムシャラに芝居を演じているのではなく、お客さんに”見せている”のです。当たり前の話なのですが、意外にこの点を忘れている人が多いのです。
舞台上できちんと物語を展開していれば、お客さんは勝手に見て、勝手に何かを感じてくれる。
そんなことを無邪気に信じている人が非常に多いのです。断言しますが、そんな馬鹿げたことは絶対にあり得ません。お客さんは我々がちゃんと芝居を“見せ”なければ見てくれないし、“感じさせ”なければ感じてくれません。演劇はお客さんとのコミュニケーションです。我々は舞台上でキャッチボールをしてるのではないのです。舞台と客席の間でキャッチボールをしているのです。
しかしこの感覚は、上演してみないと分からないというのも事実です。自分の書いたものを実際に上演したとき、お客さんにどのように見え、お客さんがどのように感じるか…。机上でいくら考えても、答えは出ません。やってみるしかないのです。
何度も上演を重ねると、自然とそれが感覚として身に付いてきます。どう書けば、お客さんがどう感じるか。お客さんの反応をコントロールすることができるようになります。しかし、上演することなくこれを身に付けるのは不可能といっていいでしょう。ですが、知らないよりも知っていた方がいいですし、またあるいは「何度か上演しているけどどうも何かが違う」と感じている、そんな人たちのためにこの記事を書いてみることにしました。
一番大事なのは、お客さんの印象。
これもまた当たり前の話なのですが、舞台上で役者が演じれば、その反応はその場で客席から返ってきます。そのダイレクトな反応が演劇のおもしろさでもあり、難しさでもあります。映像ならば、録画した後にいろんな効果を加えることもできるでしょう。編集次第で、演技のニュアンスをまったく別なものに見せることもできるでしょう。それが映像のおもしろさです。しかし生の舞台ではそれはできません。一切のフィルターを通すことなく、ダイレクトなコミュニケーションが行われます。ですから、後からコントロールができない分、”このシーンがどう見えるか”ということに非常に気を使わなくてはなりません。
さて、ここでちょっと考えてみましょう。
- 今、舞台上で何を演じているか。
- それを見たお客さんが何を感じているか。
どちらが大事でしょうか?考えるまでもありません。“お客さんが何を感じているか”=“お客さんの印象”こそが大事です。
映像の方が、例として分かりやすいかもしれません。
主人公が、友人に怒りをぶつけるシーンを撮影したとします。当初、そのシーンは激しい怒りのシーンでした。だから声を荒げる演技をしてもらいました。でも念のため、声のトーンを抑えて、静かに怒りをぶつけるパターンも撮っておきました。その後、脚本が変更になり、そのシーンは激しい怒りのシーンから悲しみのこもった苦渋の選択のシーンに、シーンのニュアンスが変わりました。しかし再度撮影する時間の余裕がありません。そこで、念のために撮っておいたトーンの抑えたパターンを使ってみることにしました。すると、編集でうまくつなげることができました。
…よくある話です。演技自体は怒りのままなのに、完成した映像を見ると苦渋の選択になっている。演技自体は実は大きな意味を持たず、その演技の与える印象こそが重要なのだという典型的な例です。映像では、全然関係ないシーンで撮ったショットを利用して、まったく違う意味のシーンを作り上げたりするのは、よくあることだと思います。
でもこれは、演劇においても同じです。舞台上で何が起こっているかということは、さほど重要ではありません。それがお客さんにどういう風に見えているか、こそが重要なのです。そしてそれは、必ずしも合致するものではありません。
舞台上で起こっていること≠お客さんの受ける印象
これをよく頭にたたき込んでおいてください。
たとえば、悲しい苦渋の選択のシーン。舞台上ではものすごく悲しい演技がくり広げられていても、やりようによっては、それを見ているお客さんには「そっちを選ぶなんて、悲しいけどものすごくかっこいい!」と感じさせることだってできますよね。“悲しい演技”=“お客さんも悲しい”だけでなく、“悲しい演技”=“けどすごくかっこいい!”も可能なのです。
印象の連続がストーリーとなる。
そう考えると、舞台上で展開する物語と、お客さんが感じている物語は、実は必ずしも一致しないということが分かります。
別の例を挙げましょう。ある人たちが、とことん不幸になっていくコメディがあるとしたら、舞台上のキャラクターたちにとっては悲劇の連続でも、見ているお客さんには喜劇の連続、ということになります。ひどい目に遭ったキャラクターが、おもしろおかしい反応をしてみせることで、悲しいはずの出来事をおもしろいものに印象をすり替えるのです。これが、印象のコントロールです。
舞台上で起こっていること≠お客さんの受ける印象
ということは、つまり同時に、
舞台上で起こることとは別に、お客さんの受ける印象はコントロールできる。
ということでもあります。
ここで、ある芝居の冒頭部分を、お客さんの側から想定してみます。実際にある本ではありませんよ。今、僕がでっち上げてみるだけです。
- 幕開き、重苦しい雰囲気で始まる。なんだか怖いな、と感じている。
- 次のシーンで、一転、場は明るくなる。バカっぽいテンションで、ちょっとホッとする。
けど、冒頭の重苦しい雰囲気は、心のどこかに残っている。 - 主人公っぽい人の周りに、ちょっと緊張感が生まれる。さっきまでリラックスしていたけど、少し背筋が伸びる感じ。冒頭の怖さがフラッシュバックしてくる。
- ちょっとした笑いで、いったん緊張感が解ける。さすがにまだ何も起こらないよな、と油断する。
- いきなり突拍子もない悲劇が起こって、衝撃を受ける。一瞬何が起こったか分からない。展開が早くてついていけない。何とか理解しようと集中して、身を乗り出す。
ものすごく大ざっぱですが、ここまでで幕開きから10分〜15分といったところでしょうか。
実際に何が起こっているかは全然考えていません。場所はどこで、時代はいつで、どんなキャラクターがいて、何をしているのか、さっぱり分かりません。でも逆に言えば、この印象が同じである限り、時代劇だろうと現代劇だろうと、SFだろうとラブコメだろうと、どれも“同じような芝居”です。だって舞台設定がいくら変わっても、見ている方が同じ印象を抱くんですから、「同じような芝居だな〜」と思うはずです。
実は、お客さんの受ける印象さえ定まれば、舞台設定などは芝居の“表層部分”に過ぎないのです。だから表層部分を入れ替えれば、何パターンでも台本を書くことができます。だいたいの脚本家は、この“印象の連続”に自分好みのパターンを持っています。上のパターンは、僕がよく使うパターンの一つです。
そしてこの“印象の連続”こそが、“お客さんの感じるストーリー”なのです。このことを、僕は芝居の“構成”と呼んでいます。(“構成”の定義は、人によって違います)上記の構成は、とても大ざっぱなものです。プロットを作るくらいならあれで十分ですが、実際にセリフを書く段階になると、もっともっと細かくなります。というよりも、セリフ1行1行について、常に“このセリフを耳にしてお客さんがどう感じるか”を考えながら書かなくてはなりません。
ある印象を与えるために、あるセリフを書いた。
そうすると、次は当然こういう印象を与えないといけないから、こういうセリフを書いた。
その印象をさらに増幅させるために、その次のセリフはこうなった。
という流れです。我々はあくまでも、お客さんの印象を基準にして脚本を書かなくてはならないのです。
印象から、シーンを想定する。
しかし、経験の浅い人ほどこの“お客さんの側のストーリー”を忘れがちです。キャラクターが何を感じていて、何をするか。敵対するキャラクターとどうやり合うか。その時なんとしゃべるだろうか。そんな“舞台上のストーリー”に執着しがちです。“舞台上のストーリー”に夢中になるあまり、それを見たお客さんが何を感じるかを忘れてしまうのです。
これは非常に危険なことです。劇作家コースに通っている人が初めて自分の脚本を上演する際、稽古場で必ず言う一言があります。
「こういうシーンを書いたつもりはなかったんだけど…」
実際に役者を使って演じてみたら、受ける印象が想定とまったく違っていた、ということです。つまり、舞台上で起こっていることと、それを見たお客さんの印象はまったく別物なのだということを、理解していないのです。
実は、役者出身の脚本家は、このギャップに陥ることはあまりありません。なぜかというと、役者としてのキャリアの間にお客さんとのコミュニケーションの感覚をすでに学んでいるからです。脚本家からスタートする人ほど、この落差に悩むことになります。二度、三度と上演を重ねても、なかなか感覚としてつかめない人もたくさんいます。結果として、書きたかった本とまったく別のものを書き上げてしまう、という悲しい事態に陥ります。
それを防ぐにはどうするか。とにかく上演を重ねて、感覚を身に付けてしまうことが最終的な解決策ですが、それまでは印象からスタートするクセをつけた方がいいと思います。
まず、お客さんに与えたい印象を考える。
そのために必要なシーンを考える。
という順番です。
上記の例で言うなら、
- 最初はまず、怖いと思わせたいな。重苦しい空気で、なんだ、これは…と警戒させよう。
→そのためにはどんなシーンを書こうか? - 最初に緊張させちゃったから、次はリラックスしてもらおう。なんか、バカっぽいテンションがいいな。
→そのためにはどんなシーンを書こうか? - 一回リラックスしてもらったところで、一度ジャブをいれよう。軽い緊張感。
→そのためにはどんなシーンを書こうか?
…といった具合です。
「こういう風に(舞台上の)ストーリーを展開させるために、こういうシーンを書こう!」ではなく、「お客さんにこういう印象を与えたいから、そのためにはこういうシーンを書かなくてはならない」に意識を変えるのです。それだけでずいぶん変わります。
もちろん、“舞台上のストーリー”はどうでもいい、と言っているのではありません。それもきちんと進行していなくてはなりません。上演を前提とした脚本の場合は、演じる役者のことも考えなくてはならないでしょう。つまり脚本家は、
- お客さんの受ける印象をきちんとコントロールしながら、
- 舞台上のストーリーをきちんと進行させ、
- かつそれを演じる役者の生理にあったセリフを、
- 脚本に書かれる全ての行について検証しながら書かなくてはならない。
ということです。
これはものすごく大変な作業です。だから、苦しいのです。脚本を書く作業が、ものすごくエネルギーを必要とするのは、こういう理由からです。軽々しく書いたセリフが薄っぺらになりがちなのも、同様の理由からです。
もちろん無駄に悩み、立ち止まる必要はありません。勢いで書くことも重要です。ですが書いたものを、常に検証するクセだけは忘れない方がいいでしょう。
稽古場は、試していくための場。
冒頭で、お客さんは“見せ”なければ見てくれない、と言いました。この“見せる”ということが、お客さんに伝えたい印象を正しく伝える、と言うことです。そしてそのためには、舞台上で何を起こすか、よりも、それを見たお客さんがどう感じるかの方が重要だということを書いてきました。まとめますと、
- 我々は、何かを“見せる”ために脚本を書いている。
- “見せる”とは、お客さんに印象を与えるということ。
- その印象の連続こそがストーリーとなる。
ということです。
しかしながら、どう書けばどういう印象を与えられるか、という方程式は、やって学ぶしかないのも現実です。というよりも、その方程式の作り方そのものが、脚本家としての個性といっても過言ではありません。当然、時間がかかります。
ですが、恐れることはありません。いきなり完璧な本を書ける人などいないのですから、たくさん書いて、たくさん稽古をしましょう。様々な方程式を試すために稽古場があるのです。稽古場でどんどん試して、どんどん変えていきましょう。始めのうちは、それが何よりの特効薬です。